もし、この世界が本当に現実で、その世界の価値観が、勝ち負けの世界であって、主体と客体の世界であり、肉体が自分であるという確信がある世界であったとしたら…そして五感があり、夢だとは思えないぐらいのリアリティがある世界なら…。
そんな世界で人類は試されます。
そんな中人が、その肉体、自分と思うものを防衛するために必死になるのは必然です。
目覚めがなければ、そのように生きて当然であることでしょう…。
またそのような世界の中でより勝ち負けや戦いの刺激を持った子供たちは、より傷つき確信を強めていくのは必然に思えてなりません。
しかし、癒しとか、ヒーリングだとか、メディテーションだとか、本質だとか至福だとか愛とか、そういったものはその反対なのです。肉体が自分でなく、この世が物質映画のような夢で、すべてがひとつで一体で、その現れであるという気づきこそが、人を本来の自己へ戻し、真の自己へ帰らせ、ハイヤーセルフへ、真我へ、様々な言葉で呼ばれていますが、そちらへ帰っていくことこそ、人の真の安らぎであり、真に運がよくなり、真に宇宙から祝福され、幸せになるものであることでしょう。
人は根気強くそれを試してみることで真実を見つけるのです。
反対にエゴイスティックな世界の中で、勝ったり抜きに出たりすれば、その中では称賛されたり、認められたり、ほめられたりするかもしれませんが、しかしその時に、万物自然の法に合わぬ為に苦しみがきっと伴うことでしょう…。
私たちはこれから、それを選択する大切な時代に入っていきます。
あなたはどう生きるのでしょうか…。

世界の闇はどのようにしたら終わるのでしょうか。

その闇は、人間の観念が終わることによって止みます。
この世であるとか現実であるとか、
また、肉体が自分であるとか、そのような観念のことです。
最新の量子物理学が証明しはじめているように本当は、
この世でなく、現実ではない等々…。当然、肉体を含めてあらゆるものが
物質映画のようなものだということを最先端の科学が、見つけはじめています。

そのために、人類には、あらたなる世界が生み出されてゆくことでしょう…。
古代の人々はその事をよく知っていました。
この世界が妄想であり、夢のようなものであることを…
日本でも古くから色即是空と言われたように、
すべてが、夢のまた夢、又
一元に帰すといったような、そのような気づきに満ちていたわけです。
世界中の古代の人々は、現実でない事を知っていました。
肉体が私でないことを…。では、何が私なのか…。と問うなら、
それは霊的なもの、霊的な事というのがより近い表現であることでしょう。
そのことが良いか悪いかは別として、要は、肉体を持たないもの、
この物質の世界、物質映画の世界のようでないその元のもの、
その元のものの性質は、一つであるものと言え、
今まで人類が神とか、愛とか、ワンネスとか、源とか、様々な言葉で呼んできたものです。
要は、霊的本体という風に捉えていいのではないのでしょうか…。


この世界はその実体の霊的なものの表れに過ぎないというのです…。
この世界のすべては、ひとつの妄想のようなものに過ぎないと言っているのです。
そして、その表れは本来中立な表れであるのですが、

肉体が自分だという風に捉えていると、
そのすべては、敵・味方、また、その誰かにとって良い・悪いに分かれていきます。
私たちが気づかなければいけないのは、
この世界が、神の表れ、万物の愛の表れであったとしても、
肉体が私であると捉えるとそこから分裂の価値観、敵味方が生まれ、
そこから争い事や競争心が生まれてきてしまいますから、
肉体が私でなく、この世界も妄想であると気づくことはとても大切であり、
その気づきがある時それらは消え失せてしまうのです。

それゆえにこの世界はそして私の肉体も現実ではないと
最先端科学が見つけ出しはじめていることは、素晴らしいことです。
人類が初めて真実の世界の中に参入してゆけるチャンスです。
このチャンスを破壊することは、きっとできないことでしょう。
人類は目覚めてしまいます。
この世が物質映画であること。肉体が自分でないこと。
自分は、その背後にある一種霊的なものであることに気づくのです。
そして、それは、ワンネスの性質をもって存在していること、
それこそがひとつであり愛のエネルギーであること、
その事を知ることとなるでしょう。
そのとき、この表れの世界も自然と愛に満ちあふれだすでしょう…。

MARTH

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