ああなりたい、こうなりたい、そのような自我の念望や希望、野心や夢、人類は様々な自我の想念(思考)によって、大切な人生を費やします…。
それによって、叶ったり、叶わなかったり、戦ったり、
負けたり、失ったり、苦しんだりすることでしょう…。
そして、わたしたちは、真のリアリティであるところの、すべてがひとつである、一体である、一者であるという真の気づきの中から、自らのそのような思考や想念を終える試みはしないで、年を取ってしまいます…。
歳とともに、最期になってゆくときに、肉体を失う、
又、当然その自我の思考も失ってしまうのではないか…、
自我のために、またその肉体のために、必死にやってきたことが終わりとなってしまう…それが近づいてきた時、人々はきっと気づくのかもしれません… それとは別のものに…。
それは、自我のものではないものです。逆に言えば、自我が存在しないこと、肉体が存在しないこと、この世界が夢のようなもので本当は、存在しないこと、本当の私が誰であるのか、この世界の夢、その物質映画のようなものを超えた、本当の自己、
人はそれを見つけることが可能でしょうか…。
人類にとって、何よりも大切なものは、本当はそのことではないかと思えてなりません…。
私は、20代の頃にそのようなリアリティのこの世界の真実に出会い、そこからしか生きれなくなりました…。
MARTH

古代にゆけばゆく程、この世界が一つであり、この世界が神秘であり、未知であり、はかりしれぬところであること、とてつもないところであること、まるで夢のようなところであること、自分など存在しない事…、すべてがもっと大きな私であること、すべてが一体であること、きっと人類は、遠く昔は、それらを知って生きていたことでしょう…。
現代はその反対側に急激に振れることで、やすらぎや愛や至福を失ってしまったのかもしれません…。
私たちは今それを取り戻す、素晴らしい旅へと向かっているのです…。
MARTH




人は自らが所属する側から物事をみるようにできています…。
万物すべてが自らであるというリアリティとは異なる、
この肉体だけが自らであり、その自らが所属する家や団体や、
民族や国、そういった何かに所属して、その側の正義やその側の正しさによって、本当はひとつであり自らである他と見えるものと戦い、滅ぼすようなことを長きにわたりしてしまってきました…。
それは、一体である、ワンネスからはそれた生き方になってしまいます…。
その源であり背景であるそのスピリットは、その霊的一体性、
真の自己、大我、ワンネス、なんと呼んでもよいのですが、
その本当の実体のリアリティとかけ離れたことをしてしまうとき、その宇宙の法則に合わない、そうした自らは、苦しみ、又、滅びてしまうかもしれないでしょう…。それは、その宇宙の法則に合わず、本当は自らであるものと戦い続けたからの結果に他ならないことだからです…。
MARTH

自分という肉体から、万物すべて、他と思うものを見る時、
主体と客体といった意識が生まれます…。そこから生まれてくるものが、思考とか想念と呼ばれています。見るものと見られるものに分離した視差は、本当はひとつのもの、本当は一人、本当は一者、本当は一元、リアリティがそうであっても気づくことは難しいのです…。
私たち人類は自らが肉体である、また、私であるというところに視座を置き、この世界を見ます。
戦いや争い、苦しみやストレスはそこから生まれます。あらゆる野心や念望希望もそこから生まれます。もしこの宇宙全体、このとてつもないものすべて、霊的なものも含めて、あらゆるすべてが一体の一つのものであると仮定するなら、相対性は消えてしまいます。主体と客体は消えてなくなります。
そのときすべてが私です。
あらゆる人々も、そのように想うと、すべては私である、という一体性が生まれます。
あらゆる人々も、私自身です。そしてその時、肉体や自我は私ではなく、存在していない、本当は存在していない想像物であるという気づきは、またこの物質世界と呼んでいる物質映画も、本当は存在していない夢のようなものだ、といった気づきを生み出します…。そのような、古代から人類が気づいていた気づきは、最先端の科学により解明され始めています。
そしてそのような素晴らしき時代は、人類が死を超えてゆける時代だと言っていいでしょう。
なぜなら、死を超える唯一のものは、この世界が夢であるという事実からだけであるのですから…。この世界が幻であり、
物質映画のようなものであったときのみ、
人類に死というものは完全に消え去ってしまうのです…。
MARTH

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