Vol.171 この世界の真実こそ、それは共生の世界であるということであり、競争世界ではないのです…。

LASTRA Quantum Healing Academy Vol.171 この世界の真実こそ、それは共生の世界であるということであり、競争世界ではないのです…。(2022年5月14日撮影)

Q:マースさんがおっしゃっていることを
よく聞いていると、お話しされている
潜在意識と顕在意識と呼んでらっしゃる
ことは、自我(エゴ)意識、分かたれ感と、
万物すべてとの一体性である真我意識
ということをおっしゃっていると感じます。
また、古代の人々は、潜在意識(一体性)を中心に生きて、
和する民であったということではないでしょうか?

A:そのとおりです…。
どう見ても、古代は和する一体性の世界であったことでしょう…。
MARTH

Q:MARTHさんがおっしゃるように
「私などいない」と気づくと、
思考がやんでくる気がするのですが
なぜでしょう?

A:思考は一体の万物に知識、そして名称や言葉づけをして生まれたものです。
それゆえに、その根本的性質上、
分離分かたれを即すという構造デザインを持っています。
そのことに深く精通し、古代の民は、注意深く言葉を扱ったのです。
秘めたる便利さと危険性とは、そのことです。
思考妄信文明の結末は、
おのずとその分離の恐れから
争い 競争 戦いとなる危険性を秘め、
癒しからけがれへと移行する性質、
電子の問題へとつながってゆきます…。
それゆえに、古代の平和文明の民は、
言葉を失うほどの愛と感動を、尊びました…。
それらは知識の果実の危険性を語ることとなる、
主要な理解といえるでしょう…
そこで、思考の基本的土台である自我“私”は、
知識においての中心的価値観ゆえに、
私がいないとの深き気づきは、
その根本的土台から真実の一体性(無我性)へと、
妄想を破壊してしまうのです…。
MARTH

主体である“自我”が存在しないという
気づきは、一切の対象が消え去ることでもあるのです…。
“私”がいないという気づきは、
この世界に主体が生まれていないという
ことでもあり、この“私”は万物の一部にすぎず、
私といった分離した自我ではないという真実の気づきへといたってしまいます。
それは、まだ言葉のなかった無我性を持った幼児期へ還ることでもあり、
万物の意識へと戻ることともなるのです。
それは、分離分かたれの恐れや野心からの、真の解放であり、
汚れから、イヤシロ、エゴから無我への移行でもあるのです…。

言葉や知識は“私”という自我によって構成され、
その“私”が存在しないとき、言葉はやみ、
広大な一体なる愛と許しの人類の本質である愛の楽園があらわれる。
人類は長きに渡り、自我意識、要は
分離分かたれで構成される健在意識を現実ととらえ、注意深さを知らず、生きてきた。
そのために、本当の愛の自らに出会うことは、難しかった…。
これから始まるあらたなる世界は、自我意識の終焉をもってしか、
きっと生まれないだろう、と感じてならない。
分離分かたれの思考の世界では、すべての癒しは消え、
騙し合い、殺し合い、奪い合う現代のようになってしかるべきであったのだろう…。
この悲しみの世界が本来の神の作った楽園に戻ることを切に願っている…。
MARTH

万物すべてが量子的一体物であるとき、
鳥や花や大地、海、虫や動物たち、山や川や人類、人種、
あらゆる美しきものたちの多様性、役割の違いこそ、
手のひらの指さんたちのように
違いこそ愛であり、素晴らしき友情であるでしょう…。
多様性の否定、すべてを同じとしようとする統一は、
差別への恐れから生まれ、みなが同じと
なるべきだという信念は、
すべてが一体であることを知らないときに生ずる
恐怖そのものであることでしょう…。
MARTH

万物すべてが一体であるというとき、
その多様性はとてつもない数にいたる…。

その違い、特徴のすべてを愛し、認め、
許し、愛しむことこそ、神の望む法で
あるだろう…。
差別によって苦しんだ民は多くいる。
しかし、その解決法は、人間観念による
まさった自我の良きものになろうとする
ことではない。万物自然の一部として、
安らいで暮らすだろう…。
自我をこえ、すべてとひとつになり、
許し、愛しみ暮らすことはできる。
その時、人は誰もが孤高に美しい…。
この世界の真実こそ、それは共生の世界であるということであり、
競争世界ではないのです…。
MARTH

「MARTH クォンタム ヒーリング アカデミー」クローズセッションをお聞きになりたい方は、こちらまで https://academy.healinglabel.com/
MARTH